こんな話を何度か聞いたことがあります。
「メソポタミアで文字が綴られていたころ、日本ではまだ石槍で獣を追っていた」「孔子が人生を語っていたころ、日本はまだ文字すらもっていなかった」、、日本はなんと遅れていたことか…。
私自身もうなずいて聞いていたように思います。
しかし、このブログを書きながら、縄文の歴史を学んでいくうちに、今は少し違う考え方になっています。
『むしろ、より進んでいた(より豊かだった)のは、縄文人の方だったのではないか』
四季があり、豊かな自然がある日本。その中での生活に満足できていたから、奪うこともせず、争うこともせず、大きくすることも望まず、100世紀を超えて長く続いていた。大陸から農耕を受け入れ、貯蓄が始まり、格差が始まり、戦いが始まり…ということは、「進化」ではなく、むしろ「退化」といえるのではないか…。
環境的にも精神的にも、より豊かだったから、文字を綴る必要もなかったし、人生を語る必要もなかったのではないか、と考えるのです。
その証拠になるかは分かりませんが、土器は縄文から弥生時代に移るにつれて、しだいに芸術性は薄れ、実用本位の簡素なものになっていきます。心にゆとりがなくなってきた、ということも言えるのではないでしょうか。
とはいえ、現状から過去に戻れるわけもなく、現実的な視野で今後を考えていくのは大切なことでしょう。
ただ頭の片隅に、何が本当に豊かといえるのか、ということを留め置きたいと思っています。